曜変天目茶碗 概要 |
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曜変天目茶碗のふるさと「建窯」は、中国の福建省の北部、現在の建陽市北端部の水吉鎮の後井村、池中村一帯にある。 現在までにも三十数基の窯跡の調査が行われ、未だにその調査は継続されている。 ここでは、中国、日本に於ける歴史的な説明は極力省き、曜変天目茶碗や油滴天目茶碗など建窯製陶器に関する推察を 行いたい。 宋代建窯の主な生産品は、兎毫盞(以降記述は禾目天目)、滴珠(以降記述は油滴天目)、曜変天目茶碗、鷓鴣斑盞である。 黒釉の物は窯変現象が現れなかった物で、当初からそれを狙って焼成された物ではないと考えられる。 鷓鴣斑盞に関しては諸説あり、建窯製品全般を指し示す言葉という説や、黒釉の上から人為的に白い釉薬を斑紋状に並べた 物だけを指し示すという説などがあるが、ここではこの事に言及しても仕方がないと考える。 また、鷓鴣斑盞が油滴や曜変を模した物とする説もあるが、あまりに稚拙なできであり、別に何らかの事情があると考えた 方が良いと思われる。 簡単に考察するとすれば、絵付けに依る白い斑紋が茶碗の内側だけにしか描かれていない点に注目すれば、この斑紋が曜変天目茶碗を見た人物によって作られた可能性がある。 あまりに稚拙な描画である為にかえって判断が鈍るが、通常の考えでは椀の外側にも斑紋を描く場合もあるであろうが、これが見られないのは、目にした曜変天目茶碗の模倣を作ろうとしたとしてもおかしくはないと思えてくる。 しかし、藤田美術館や当社の実験で、曜変の斑紋は外側には出来にくいだけであって、出来ない訳ではない事が実証されている また、毫変盞という釉調の記述が中国の文献に見られるが、人為的な模様と考えられる。 鷓鴣という鳥に関しては、ウズラの一種であると言われ、首の辺りの模様が斑紋状を成している。 ![]() ![]() ![]() 鷓鴣斑盞? 鷓鴣 毫変盞 生産品の中でも、群を抜いて数が多いのが、禾目状紋様が現れた「禾目天目」である。 また、この中でもほとんどを占める製品は、明茶色の筋状の禾目天目であるが、紋様がラスター状色彩を帯びるものが、 日本の伝世品に見られるが、全体から見ればほんの僅かなものであると考えられる。 曜変天目茶碗に関しては日本に3椀だけ、油滴天目茶碗に関しても日本に数椀とアメリカのフリーア美術館の物が知られ る程度であり、数量的にも僅かな物が焼かれたに違いない。 何故、これだけの優品が奇妙なくらい日本に集まっているかという事について、近代の研究では、北宋時代から南宋時代 初頭にかけて中国国内で流行した喫茶方法と闘茶の習慣が、南宋時代中期には喫茶方法および茶の製造方法が変わった事 によって、建盞が尊ばれなくなり、その頃に日本の喫茶の流行とがかさなり、いわば中古品として高く売れる日本に、大 量に輸出されたと言われている。 言い方は悪いかもしれないが、コンピュータ時代に日本が、他の国が算盤を高額で買ってくれると言われて、大量に輸出 したようなものかもしれない。 とはいえ、近くにあり灰被天目を製造した茶洋窯や、吉州窯が白い土にわざわざ黒土の化粧をして黒釉茶碗を焼成してい る処からも、建窯製品がいかに人々に好まれていたのかは推察できる。 |
曜変天目茶碗 禾目天目 |
近年、曜変天目茶碗が人為的に絵付けされた物であるという説を唱える方がいらっしゃったり、また公然と絵付け技法を使い 「曜変天目茶碗の再現」を完成させたかの如くの発表を行い、またはそれを公の新聞紙上などに掲載するなどが行われており 知る限りでも、数人の作家の方がそれをおこなっているようである。 もちろん、800年以上も前に出来た茶碗がどのような技法によって生まれたのかを実証する事は、困難な事であり、現物の 非破壊試験でも許される時を待たねばならないかもしれないが、ある程度は残された建盞と、それを観察する事で推察する事 は可能であると考える。 ある、作家の方は、山に登るのに何処のルートを辿ろうが、登頂できれば手段は関係ないという意味の発言をされているよう であるが、エベレストに登ろうとして、夢の中で家の裏の砂山に登ってエベレスト登頂に成功などと、吹聴されては困るのである。 また、以下に使用する資料、写真は自分の物以外は、許可も受けずに勝手に掲載する事をお許し願いたい。 建窯の主生産品が茶色の禾目天目茶碗類である事は前記した。 窯跡には夥しい数の陶片が散乱しているが、そのほとんどは茶色の禾目天目の破片とサヤ鉢類の破片である。 ![]() ![]() 左の写真は建窯で生産された茶碗の大半を成す、茶色の禾目天目茶碗、右の写真は銀色の禾目天目茶碗である。 茶色の禾目は多いが、銀色の物は極めて希に生まれたようであるが、油滴天目や曜変天目に比べれば多く残されている。 当方で建窯の禾目天目茶碗の破片を再焼成して実験した限りでは、世間で言われる程、建窯の天目茶碗は極端な還元焼成 をされた物ではなく、茶色の禾目は焼成の最終段階でかなり酸化炎に晒された物、銀色に近くなる物も焼成途中で一度期 酸化炎に晒され、その後、最終段階で還元作用を受けた物ではないかと推察されます。 また、書物によっては、釉薬が二重掛けされているとの記述が見られますが、私の見た建盞の中にはそれらしき釉薬のも のは一つもありませんでした。 おそらくは、茶洋窯製品の灰被天目茶碗との混同ではないかと思われます。 ![]() ![]() ![]() ![]() また1980年代に中国で行われた建窯の発掘調査時に発表された釉薬の分析値は次のようなものでした。 一例を揚げておく事にしますが、数十種類のサンプルの値はどれもそれほど差のある数値ではありませんでした。 カリウム:2.96%、ナトリウム0.09%、カルシウム6.20%、マグネシウム1.68%、マンガン0.65%、アルミナ18.73% 二価鉄6.20%、一価鉄1.69%、チタン0.76%、リン酸1.25%、珪酸60.92% およそ、鉄分は6%内外の物が多く、成分的には現地の赤土に木灰を配合しただけ、もしくは風化の弱い赤土の元の ような物に木灰を配合しただけではないかとの推測が成り立つ物です。 また、現地には真っ白なカオリン質粘土や、天目茶碗に用いられた物よりも鉄分の少ない粘土もたくさん有り、これ らはサヤ鉢や目土に使われていたようです。 建窯はあくまでも民窯ですが、官にも収めていた事も知られており、高台内には「供御」や「進盞」などの文字が刻ま れています。 ![]() ![]() |
曜変天目茶碗 伝承と模倣 |
曜変天目茶碗には古くから言い伝えられた、伝説のようなものが多数存在します。その幾つかを揚げてみたいと思います。![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 比較的、新しい俗説も入れてみましたが、例えば血液を振りかける説にはラスター絵の具の原料であるビスマスが微量に 含まれていますし、タングステンでは虹色の星形、多角形の結晶が生まれる事は古くから知られていますし、銀の絵の具 がラスターとして使える事も古くから知られています。 或意味、どれも一理有る説のように思えてきます。 ![]() ![]() ![]() 銀と鉛の絵の具 銀と鉛とビスマス タングステンの結晶 まだまだ、この他にも色々な技法で曜変天目もどきは作る事が出来ますが、いわゆる「写し」とは違い、曜変天目茶碗の 斑紋模様を絵付けするような事は、慎むべき行為または「絵付け曜変天目風茶碗」とでも表記すべきだと思います。 |
曜変天目茶碗 観察 |
![]() ![]() ![]() 藤田美術館 静嘉堂文庫美術館 大徳寺龍光院 写真は言わずとも知れた曜変天目茶碗の3つですが、この3つの茶碗の何処を見て私達はこれが曜変天目茶碗だと判断してい るのでしょうか。 それと云うのも、3つの茶碗の斑紋の現れ方はよく観察すると、かなり違っているのにも関わらず、私達はこの斑紋の出ている 配置、群れごとに並ぶ斑紋の配置から、これを曜変天目茶碗だと認識しているようであるからです。 一つ一つの斑紋の出方で、特徴的な物を揚げてみます。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() @ A B C D @中心に円状の斑紋とその周囲にリング状の輪があるもので、虹彩は見られないもの。 A円状の斑紋のみで銀白色、周囲にはリングや虹彩はみられないもの。 Bリング状の輪のみで、中心部は外側の黒釉地、周囲の虹彩は見られないもの。 C虹彩のみが存在し、リング状の輪は消えており斑紋は黒釉地となっているもの。 D中心の円状斑紋が在り、リングは消えかかり、周囲には虹彩が拡がっているもの。 大きく分類すると、以上のようにだいたい5つの斑紋の状態のパターンに分けられる。 このように別個の画像に分割してみると分かりやすいが、曜変天目の斑紋自体には様々なパターンが存在するが、共通点は 群れ状に並んで存在していることで、これが曜変斑紋の一番の特徴とも考えられる。 次ぎに特徴として、著しいのはその虹彩と表現される色合いであろう。 言葉で表現する事が難しく、写真では分かりづらいが、銀白色、青銀色、とでも表現したら良いものか、見る角度によって その青く見える部分が動いて見えるからややこしい。 また、光線の当たり具合によっては、緑色、赤色、橙色、などが僅かながら見える為に、より色彩が複雑に感じられる。 また、斑紋は円状としか言葉が見つからないが、かなり歪なものが多い。 簡単に考えれば、釉薬から現れたのかどうかは別にして、中心にある黄灰色の斑紋が融けて、周囲に拡がる際にリング状を 成し、さらに周囲へと拡がる際に膜が薄くなって青色が強く感じられるようになるかのように見え、虹彩の範囲が広い箇所 ほど、中心の斑紋はぼやけ、中にはなくなっていて地の黒釉になっている箇所もある。 また、虹彩が鮮やかに出現している場所、広がりの大きな箇所ほど、その虹彩の形状が明らかに、禾目状になっているが、 これは、禾目天目との関連を伺わせるに充分なものだとも考えられる。 また、龍光院の曜変天目の茶だまり付近での斑紋は、静嘉堂所蔵の油滴、大椀のそれに近い斑紋とも考えられ、油滴天目と の非常に近しい関係をも感じさせるに充分である。 日本に残っている3つの曜変天目茶碗だけでも、このように斑紋の出方が数種類もある事は、実は曜変天目という斑紋は もっと、様々なパターンの状態の斑紋になる可能性を秘めているとは考えられないであろうか。 むしろ、そう考えた方が自然であろう。 織田信長と共に焼失した曜変天目茶碗が、いったいどのような状態の斑紋の斑紋の現れた物であったかを想像してみるのも 面白い。 |
曜変天目茶碗と油滴天目、禾目天目 |
![]() ![]() ![]() ![]() 上の4つの天目茶碗の写真は、左から順に東洋陶磁美術館蔵、根津美術館蔵の裏と表、静嘉堂文庫蔵です。 2枚目と3枚目は同じ茶碗の裏と表です、この茶碗は簡単に言えば表側が油滴天目で裏側が禾目天目になっています。 1980年代に発掘調査の進んだ建窯の窯跡の、茶碗の釉薬も胎土も相当数の科学的分析が進められ、公表もされています。 ほとんどは禾目天目茶碗の破片の分析ですが、油滴天目に関しては名古屋大学の名誉教授でもあり、唯一曜変天目茶碗を顕微鏡で観察し、論文も発表されている山崎一雄博士が分析されています。 しかし、油滴と禾目の両者の分析値に際だった違いは分析されず、両者の釉薬がほぼ同じ成分の物である事が明らかにされています。 筆者も以前手に入れた、曜変天目と同じような虹彩が5mm角程度の僅かに現れた茶碗を手に入れて、その部分を分析した事がありますが、そこから得られたデータとしては、0.02%のイットリウムと、同程度のルビジウムが珍しい成分としては検出されましたが、この程度の分量で釉調に影響を与えるとは到底考えられません。 様々な。化学的な分析値と付け合わせてみても、「禾目天目と油滴天目は同じ釉薬である」と考えて間違いはないでしょう。 その答えを、上の根津美術館の天目茶碗は如実に物語っています。 また、左の東洋陶磁美術館の油滴天目と、静嘉堂文庫の油滴大椀は、曜変天目茶碗と同類の遊色効果である、青白く見える部分が動いて見える効果を持っています。 また、龍光院所蔵の曜変天目茶碗の茶溜まり付近の油滴状斑紋と静嘉堂文庫の油滴大椀の斑紋も非常に似通っていますし、曜変天目茶碗の虹彩部分の形状が禾目の形状そのものである事などから、総合的な判断をするとすれば、「曜変天目の釉薬=油滴天目の釉薬=禾目の釉薬」と考えた方が、納得のいくものではないでしょうか。 もちろん、微量な成分の誤差はあるにきまっています。 |
曜変天目の斑紋はいかにして生まれるか |
曜変天目茶碗の斑紋がいかにして生まれるのか、諸説ある事は既に記載しましたが、大きく分けて考えると3つの可能性がある事になると思います。 一つは、窯の中の何らかの状態で起きるという従来から誰もが考えているもの、一つは曜変天目の斑紋そのものが結晶であるという結晶釉説、もう一つが斑紋の模様を人為的に描いたという説。 最後の説を唱える方は斑紋の模様が人為的な配置に思えると考えられているようですが、私には到底そうは思えませんし、もしそうであれば、もっと量産された筈ですし、もっと違った紋様や具象的な絵を描く可能性があると思えるのですが、そのような物は存在していません。 また、絵付け説を唱える方の中には、茶碗の内側にだけ斑紋があって、外側に無いという事をおっしゃる方もいらっしゃいますが、これは間違いであって藤田美術館所蔵の曜変天目茶碗には、外側にも斑紋が多数存在しています。 また、結晶釉説に関しては3つの茶碗を観察しても、斑紋が結晶だと思える部分が全く見つかりません。 ![]() ![]() ![]() 左から順に、龍光院、静嘉堂、藤田美術館の曜変天目茶碗の外側の写真ですが、藤田美術館所蔵の茶碗には数多くの曜変斑紋 が輝いています。 静嘉堂文庫の茶碗にも、二箇所ほど虹彩が現れており、龍光院の茶碗の外側には網目状に虹彩に近い輝きの筋状の線が見られますが、これは焼成中に起こる現象によって現れた物だと考えられます。 またこれは、曜変紋様の発現に深い関係があるようです。 曜変天目茶碗が絵付け的技法によって生まれたとおっしゃる方の多くは、あの不思議な群衆斑紋が、自然の力では出来得ない配列だとお考えの方が多いようですが、次ぎに私が実験を繰り返した天目茶碗に群衆斑紋が現れた例を掲載いたします。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 大量の写真を掲載したのには訳があります。 つまり、曜変天目茶碗の斑紋、紋様は人為的な絵付けなどせずとも、窯で焼成するだけで生まれうるのだと云う事です。 これらの茶碗は、無論私が曜変天目茶碗の紋様が何故出来るのかを調べる為に焼いた物です。 基本的な釉薬はどれも建窯の破片の分析値から得た数値から調合した、単純な黒天目釉と云えます。 ただ、工業用窯業原料を調合した物ではなく、自分で採取した含鉄土石原料を使用し、自分で焼いた木灰を使用しています。 これらの実験から分かった事は、曜変天目の斑紋は決して難しい物ではなく、絵付けなどの細工から生まれる物ではない事、 また結晶釉ではない事です。 原料の選定や調合が未熟で、未だに建窯の窯変天目と全く同じ色合いの物は出来ていませんが、これは、そもそも建窯で使用 された物と全く同じ原料を使用しない限りは無理であると思われます。 しかし、群衆斑紋はそれが無くとも生まれます。 云える事は、建窯の曜変天目茶碗も同じように窯焚きだけで生まれた物であるとの確信を得た事と、ある特殊な条件が重ならないと、この斑紋は生まれない為に、建窯のような大量に天目茶碗を焼いた窯でも、おそらく日本に現存する物と、もしあったとしても極小数の物しか曜変天目茶碗は焼かれなかったであろう事、また日本に現存する3つの曜変天目茶碗が、同じ窯焚き、つまり1回の窯焚きから生まれた可能性が高い事などです。 また、原材料が違うと群衆斑紋が出来た時に必ずしも光彩が周囲に現れる訳でもなく、3つの曜変天目にも見られるように、いくつかの斑紋のパターンが考えられ事で、もしかすると静嘉堂文庫の曜変天目よりも素晴らしい斑紋が生まれる可能性が潜んでいます。 それは、織田信長と共に焼失した曜変天目茶碗に匹敵する物かもしれません。 3つの茶碗を見ていて、想像をたくましくすると、龍光院の茶碗が一番温度が低くあがった物、藤田美術館の物が一番温度の高い位置に窯詰めされていた物、静嘉堂文庫の物がその中間域に窯詰めされていたものであろうとの想像です。 一緒に生まれた曜変天目茶碗が、まだ数椀はあった可能性は非常に高いのですが、一つは織田信長と一緒に焼失していますし、もしかすると、釉薬が垂れてしまった失敗品があり、そのうち発掘現場から破片が発掘される可能性が充分にありうると思っています。 また、このような曜変天目模様が生まれた原因は、当時の窯焚きの失敗が原因だと考えるのが科学的、合理的だと云え、それゆえにその後、これが焼かれる事が二度と無かったのだと云うのが私の結論です。 ![]() ![]() ![]() 上の3枚の写真は、焼けた禾目模様が、曜変天目茶碗のそれと同じように、青く見える部分が動いて見える虹彩状になった ものですが、何故かこれと群衆斑紋が同時に生まれません。 これが同時に生まれる為には、建窯現地の釉薬原料と同じ物が必要なようです。 そうです、つまり群衆斑紋が生まれる原因と、独特の虹彩が出来る原因は別々に考えなければならない訳なのです。 最後になるが、前出の山崎一雄博士の有名な論文である、「曜変天目」のの中にも、プラマー教授から頂いた建窯天目の破 片の中にも、曜変天目の虹彩と類似する青紫色の光彩を有する部分があり、特にこの部分を削って分析したがせいぶんに変 わりはなく鉛などは含まれていなかったとの記述があり、光彩は鉛釉によって生じたものではないとしている。 また、別の箇所には、斑点の周囲の釉が失透結晶していること、斑点の周囲に青紫色の光彩があることなどから見て人工的 とは考え難い。 また別の箇所には、曜変天目の斑点と光彩は特殊の元素の存在によるものではなく、通常の建盞の釉が特別の条件下っで固 化した時生成したものであろう、との記述もある。 また別の箇所には、青紫色の光彩が斑点の周囲に多いことは、、これが斑点の生成と関係があることを示しており、薬品で 釉を人工的に腐蝕させたとは考え難い、との記述もある。 博士がこの時点で既に、現在の陶芸界で行われているような模倣技法のほとんどをご存じで、またこれらの行為を否定して いるようで非常に興味深い ![]() ![]() ![]() ![]() |